寺社由来案内板

城下町村上 寺社由来案内板

はじめに

村上には、城跡や神社仏閣はもとより、武家屋敷、町屋、曲がりくねった路地、昔ながらの町名等々、その面影を色濃く残しています。

その一つとして、村上商工会議所が寺院や神社にスポットを当て、数年間寺社巡りツアーを実施してきました。そこには、地元の人さえ知らなかった寺社の由緒や歴史的建造物、美しいお庭、大事に受け継がれてきた寺宝や社宝、伝承物などがあり、改めて城下町村上の魅力を実感することができました。

その寺社の魅力を、市民や観光客の皆様に伝えるツールとして、実行委員会を組織し統一感のある由来案内板を神社や寺院に設置いたしました。

本サイトに掲載している寺社の由来は、由来案内板と同じ内容で、村上市の歴史家・大場喜代司氏や設置している寺社の住職または宮司が執筆され、互いに校正して仕上げたものです。

村上市の町歩きの一助として、寺社巡りをしたくても時間がない方など、是非、お読みいただき、いにしえの旅を満喫していただければ幸いです。きっと城下町村上の歴史の息吹が甦ってくるものと思います。

■寺社と歴史に親しむ実行委員会<事務局:村上商工会議所 諸業部会>

【構成団体】 村上市仏教会・村上高等職業訓練校・村上市観光協会・村上市観光ガイド会・村上商工会議所

寺社の由来案内板設置箇所

寺社一覧名簿H280520.

案内版設置箇所マップ

■広域マップ [PDF]ダウンロードjisya-map-kouikiH2608

■市街地マップ  [PDF]ダウンロードjisya-map-shigaichiH2608

寺社の由来について

寺社名/所在地寺社の由来
1庚申堂
村上市片町4-32
創建、天文九年(一五四〇)に行海(ぎょうかい)上人が摂津国(大阪)から勧請(かんじょう)して、安良町に祀ったといわれている。その後、寛文七年(一六六七)城主榊原式部大輔政倫(さかきばらしきぶのたゆうまさとも)が、現在地に移し、安良町の跡地には稲荷神社を建てたとされる。
片町に庚申堂を移したゆえんは、その地が村上城下の中心「札の辻」(大町と上町と安良町の接点)から見ると表鬼門にあたることからで、城下の鬼門封じのためである。庚申信仰は古代中国に発祥し、魔除けや悪鬼封じなどの目的で、村外れや辻によく祀られるが、堂を建立するものは非常に少ない。安政六年(一八五九)の建立である。
2専念寺
村上市庄内町7-8
創建は元和(げんな)七年(一六二一)京都知恩院の末寺。本尊は阿弥陀如来で脇侍は観音菩薩と勢至菩薩である。開山の呑徹(どんてつ)上人は豊臣家臣(とよとみかしん)、新田源左衛門尉貞経(にったげんざえもんのじょうさだつね)の五男。
京都の法然院(ほうねんいん)で修業し、その後江戸に出て伝通院や増上寺(ぞうじょうじ)で学んだ僧である。
寺の記録によると、慶安二年(一六四九)松平大和守直矩(まつだいらやまとのかみなおのり)侯播州姫路より村上城主として入封、その後同寺は菩提寺となる。寺を再建し鐘楼を建立、荘厳を整え、そして京都の仏師が彫った千躰佛(せんたいぶつ)(千躰のお地蔵様)を奉祀(ほうし)したが、明治九年の火災でわずかを残して焼失、現存するのはその後の作で、身丈六尺の地蔵菩薩とともに祀られている。境内には院殿号の墓があり、当時のものと思われる。
本堂前にある阿弥陀如来の石像は九品仏の下品中生仏である。
3善龍寺
村上市庄内町7-11
創立は寛永十六年(一六三九)四月十九日、開基は秀円(しゅうえん)和尚。もとは仲間町にあったが、城主堀丹後守直竒(ほりたんごのかみなおより)が、その場所を「茶屋」にするため、現在地に移したと伝えられている。
現在の本堂は天明(てんめい)六年(一七八六)の飢饉のとき、檀頭宮川屋彦次郎(本姓風間)が生活困窮者を救済するため、私財を投じて建てたものである。
工期は足かけ二年、大工 6237人、塗師 871人、経費合計一四両二分と銭二七三○貫であった。欄間や向拝などの彫刻は、板垣伊兵衛の手になる見事な出来である。
4伊勢神明社
村上市小町4-18
伊勢神明社(伊勢神宮御旅社)由緒
御祭神
天照皇大神 (国民の大御祖神(おおおやがみ))
豊受大御神 (衣食住の守護神)
始祖は伊勢神宮造営時(約800年前)より伊勢神宮造宮一頭太夫として外宮の御鑰取(みかぎと)り内人職をつとめ鑰を預かると同時に、御師(おし)として伊勢神宮より手代(代官)を全国に送りました。
延宝三年代表である伊勢神宮大宮司大中臣朝臣・長春と血縁であったところから、両皇大神宮の御神号を拝受しました。これを村上市に遷して伊勢神明社として崇敬する事となり明和年間に至り、一般参拝が許される事となり現在、毎年一月から四月年賀大祭を斎行しております。八月十六日十七日には村上市の各町内の屋台による七夕祭り獅子舞奉納が社頭において披露されます。
5法音寺
村上市小町3-9【ご朱印承ります】
宝永二年(一七○五)の記録では元和(げんな)元年(一六一五)阿闍梨宗海(あんじゃりしゅうかい)の開基によるとあり、本寺は羽州(山形県)湯殿山滝水寺とある。その後、延宝六年(一六七八)明海(みょうかい)上人により再建された。
明治十六年(一八八三)の記録では、同寺は高野山明王院(みょうおういん)の末寺とある。
本尊の不動明王は、日本三大不動尊の一つの菅谷(新発田市)の不動尊を分霊したものである。菅谷の不動尊はインドから中国、そして最澄(さいちょう)によってわが国に伝えられ、菅谷へは源頼朝の叔父護念上人によって伝えられたという。
6安善寺
村上市小町3-34
創立は明暦元年(一六五五)十月十九日、開基浄貞(じょうてい)上人。楼門(ろうもん:下層に屋根のない二階造りの門)の建立は正徳(しょうとく)二年(一七一二)で、(明暦年間の説もあり)村上城下では他に類がなく、貴重な建築物である。
なお、復元改修工事は平成十七年である。鐘は第二次世界大戦の際に供出したが、冶工は村上の鋳物師 平野平太夫と同清兵衛である。
境内に立つ高雄紅葉(たかおもみじ)は、樹齢もさることながら非常に発色がよく、村上市の天然記念物に指定されている。また村上藩医でカラフト探検を行った窪田潜竜(くぼたせんりゅう)や相撲取りの羽黒嶽権五郎(はぐろだけごんごろう)の墓所でもあった。
7安泰寺
村上市塩町6-34
村上藩主 内藤氏の移封とともに享保(きょうほう)五年(一七二〇)村上に移る。藩主の学問所であったという。
戊辰戦争に村上藩が官軍に敵対した責めを一身に負い、家老 鳥居三十郎が切腹したのが菩提寺であるこの安泰寺である。
辞世の歌は、
淡雪と 共にわが身は消ゆるとも 千代萬代に 名をぞ残さむ
明治期まで句会も多く開かれており、境内にも児玉亀六、八子露月、桃林舎(角田)青牛などの句碑が残っている。
また、参道には立ち姿の下品上生仏の九品仏がある。
8妙法寺
村上市寺町5-3
開基、天正四年(一五七六年)
久成院日扇(くじょういんにっせん)上人による。文化二年十一月(一八〇五年)に全堂(本堂・庫裡・山門・番神堂・三重塔)を焼失。殿様も火災見舞に来られたと記事にある。
表より裏から見た方が見事な山門や唐破風の本堂は、その後に建てられたもの。
この寺には堀丹後守の家臣 堀大膳の、さほど大きくない自然石の墓がある。
「春の立つしるしやかすむ雪の山」小谷松帰一師の句碑もある。また、宗祖日蓮聖人真筆の手紙断片(宗宝)が保管されている。
9西真寺
村上市寺町3-29
開基良喜は、平重衡(たいらのしげひら)の子孫 本庄重幸で、信州飯山に住していた。当時、重幸は上京し、東本願寺教如上人に帰依し、出家得度して法名釈良喜と下された。飯山に帰って、時の城主 堀丹後守直竒(ほりたんごのかみなおより)侯により一宇を建立、教如上人より寺号斉真寺と免許された。
城主が元和(げんな)二年(一六一六)越後長岡城主、次いで同四年 村上移封の時、随従して堀片に寺地を拝領した。その後、松平大和守(まつだいらやまとのかみ)が城主の時、寺町へ替地、殿堂を再建した。寛文二年(一六六二)十月二十九日良如上人のとき西本願寺に転派、寺号を西真寺と改めた。
10長法寺
村上市寺町3-24【ご朱印承ります】
開基、文禄元年(一五九二)善住院日遥(ぜんじゅういんにちよう)上人による。元は猿沢(朝日地区)にあった寺と伝えられ、隣寺の経王寺の末寺と『村上寺社旧例記』にある。
本尊の釈迦如来は仏教の始祖で、多宝如来は法華経の真実義を証明するために地より湧出(ゆうしゅつ)した仏である。もう一躯(いっく)の鬼子母神は、子の養育を助け、法華経を弘める行者を守護する神という。
本堂に用いられている柱材などは天保(てんぽう)年間(一八三〇~四四)に村上城の居館を解体、再建したときに払い下げられたものを用いたと伝えられている。
11経王寺
村上市寺町3-32【ご朱印承ります】
創立は貞和(じょうわ)五年(一三四九)、開山は日蓮上人の孫弟子 日住(にちじゅう)上人である。最初、日住は経王寺を西蒲原角田に開いた。その後、永禄年間(一五五八~六九)猿沢に移り、慶長年間(一五九六~一六一四)に村上城下に移り、今日に至っている。
村上城主が松平直矩(まつだいらなおのり)のとき(一六四九~六七)には、直矩の父 直基(なおもと)の母 品量(ひんりょう)院と、直矩の母 永寿(えいじゅ)院の位牌所にされていた。松平家の姫路転封に伴い、分かれて一寺は姫路へ移る。姫路での寺号は永寿寺である。境内に大名 間部(まなべ)家の家老 勢家市右衛門(せいけいちうえもん)が父母の菩提のために建立した五輪塔が現存する。俗に寺町の大寺といわれている。
12浄念寺
村上市寺町3-13
開基、明応(めいおう)(一四九二年~一五〇一年)の頃、浄念法師。
開山、天正年間(一五七三年~一五九二年)、秀譽萬立(しゅうよばんりゅう)上人。
本尊、阿彌陀如来座像(丈六(じょうろく)佛)。この寺の本堂(一八一八年再建)は白壁土蔵造りで国指定文化財(平成三年三月三十一日指定)である。村上城主 本多家、榊原家、間部(まなべ)家(一六四四年~一七二〇年まで)の菩提寺で、間部越前守詮房(まなべえちぜんのかみあきふさ)侯の御霊屋(おたまや)がある。元禄二年、奥の細道の道中、松尾芭蕉と弟子の曽良が参詣している。(当時 泰叟寺(たいそうじ))
13光濟寺
村上市大工町2-5
開基、天正十四年(一五八六)
法花院浄乗(ほうけいんじようじよう)上人による。浄乗は、元・四国の讃岐(さぬき/現在の香川県)の安冨元家という武士であったが、戦国の世、本願寺に身を寄せ、顕如上人のもと剃髪・出家し、この村上の地に浄土真宗の一宇を創建した。
本尊は阿弥陀如来の立像で、背面に釈浄乗願主の文字があり、慶長期以前の作である。
また室町中期の作と思われる童形聖徳太子像を安置している。
本堂は、明治五年に全焼した後、仮御堂であったのが、昭和二年に再建され、現在に至っている。
14善行寺
村上市大工町1-5
元和(げんな)七年(一六二一)、村上城主 堀丹後守直竒(ほりたんごのかみなおより)侯に境内を寄進され創立との伝承あり。のちに歴代城主、特に内藤侯の知遇を受け、家老久永、島田、その他重臣の菩提寺となる。
寺は明治五年の大町の大火で全焼し、ご本尊の阿弥陀如来像を除き寺宝、諸記録等が消失した。現在の本堂は類焼直後、仮の本堂として家老 久永家の邸宅の一部を移築したもの。その後、昭和十年頃より本堂再建の計画を立て、着工直前まで準備されたが、昭和十二年七月に日中戦争が勃発したことから寺院再建は中止となり、その後、再建の機会を失い、現在に至っている。
15十輪寺
村上市大町3-17【ご朱印承ります】
創立不詳、江戸時代は出羽国(山形県)湯殿山真言宗滝水寺の末寺であったが、その後は高野山派に属す。本尊の地蔵菩薩は火伏の霊験あらたかとして有名であった。領主 本庄繁長が里本庄村から移したとも、村上頼勝が蒲萄(ぶどう)村から移したともいう。もともと城主の信仰が厚く、堀家の家老 堀主膳は七湊の田二町を寄進し、歴代の藩主も三石の米を寄進している。
毎年七月二十三日の地蔵会式には城主の代参があった。参道には九品仏の一つ、中品下生仏と閻魔堂がある。明治五年(一八七二)火災によって焼失。その後、規模を縮小する。
16等覺寺
村上市細工町1-15
皆様、当寺は真宗大谷派六角山等覺寺と号し、開山は慶長十五年(一六一〇)今から四百年前、世の中は江戸時代の初期、家康、阿国、林羅山等が歴史に名を連ねる時代であります。開基 釈了法は播磨国六角村に生を受け、姫路市の本德寺で僧門に入り、後、御本尊阿弥陀如来立像と両御脇掛(親鸞、蓮如)に共をして、この地 村上で開山致しました。本尊の男性的御尊顔を拝するに、その永き古、困難な旅の御苦労を偲び申し上げ、この永く村上に支えられて来た事に感謝申し上げる次第であります。寺紋は三ツ割り菊であります。当山
17本悟寺
村上市細工町1-2
本願寺第五世 綽如(しやくにょ)上人の二男 鸞芸(らんげい)師、文安(ぶんあん)元年(一四四四)加賀国・津波倉(つばくら)に本蓮寺を開創。永禄九年(一五六六)小松細工町に移る。慶長三年(一五九八)小松城主 村上周防守頼勝、加賀国小松より村上に移封の際、周防守の招請により本蓮寺第九世 憶持院教惠(おくじいんきょうえ)師、門徒七戸を従え、慶長四年(一五九九)現在地に至り、町名を旧小松にちなみ細工町と改め、寺地七百歩を拝領し一寺を建立する。寛永年間(一六二四~四四)本悟寺と改号し、現在に至る。
寺には、小松本蓮寺常住物の裏書のある、親鸞(しんらん)聖人、聖徳太子(しょうとくたいし)、三国七高僧の三幅の御影像が伝わる。
18藤基神社
村上市三之町11-12【ご朱印承ります】
藤基神社社殿は総欅造りで、日光東照宮と同じ権現造りです。嘉永二年(一八四九年)に当時の工匠がその技を結集し、八年の歳月を費やして造りあげたものです。村上の生んだ工匠 有磯周斎(ありいそしゅうさい)による、かご彫りと呼ばれる彫刻の傑作を各所に残しております。
ご祭神は、徳川家康侯の異母弟にあたり、徳川家十七士の一人でもある村上藩の藩祖 内藤信成(のぶなり)侯、十代 内藤信敦(のぶあつ)侯、十一代 内藤信思(のぶもと)侯を祀ってあります。
八幡大神(やわたのおおかみ)、誉田大神(ほんだのおおかみ)、火帯姫大神(ほたらしひめのおおかみ)、稲荷大神(いなりのおおかみ)、倉稲魂神(うかのみたまのかみ)、秋葉大神(あきばのおおかみ)、火産霊神(ほむすひのかみ)、学問の神である菅原道真(すがわらみちざね)公を祀ってあります。
19行恩寺
村上市長井町5-6
創立 寛文2年(1662)8月18日、開基は浄真和尚で東本願寺の大谷派と、明治16年(1883)の「新潟県神社寺院仏堂帳」にある。
この創立年から推量すると、当時の領主 松平大和守直矩(まつだいらやまとのかみなおのり)(15万石)の、家臣増加に伴う宗教政策上から建立されたものであろう。
山門に掲げられてある欄間の彫刻の龍は、村上の生んだ工匠 有磯周斎が娘ハツのために当寺へ寄贈したものである。
20浄国寺
村上市長井町4-10
創立 元和(げんな)5年(1619)
城主 堀直竒(ほりなおより)の城下町建設の開始とともに建立された寺である。開山は往蓮社生誉呑虎(おうれんしゃしょうよどんこ)和尚。
収蔵の木像釈迦涅槃(しゃかねはん)は極めて珍しいもので、領主 内藤家家臣 夏目吉兵衛の姉で同寺の尼僧になって修業していた教蓮社照誉善能比丘尼(きょうれんしゃしょうよぜんのうびくに)が、寛延(かんえん)3年(1750)に寄進したものである。
本尊左右の飛天は、村上の名工と称えられた稲垣周左衛門が安政4年(1857)に彫ったもの。また内藤信積(のぶもり)の菩提のために納めた観世音菩薩や寺紋の一つに、内藤家の家紋 まんじ・藤丸(巻藤)を使用していることから、同家の家中寺であったことが推量される。
21善澤寺
村上市羽黒町6-14
創立 慶長11年(1606)、開山は福島市の長楽寺三世の傑山雲勝(けつさんうんしょう)和尚で、開基は堀丹後守直竒(ほりたんごのかみなおより)とある。堀直竒が村上城主になるのは元和(げんな)4年(1618)であるから、創立年から12年間の空白がある。その間、空寺になっていたものか。
本尊を聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)とし、境内には地蔵菩薩を祀る地蔵堂があった。古くは全悟庵(ぜんごあん)と称し、現在の常福寺の場所にあった。そのときの和尚は諦真林察(ていしんりんさつ)という。
林察の師は長楽寺の雲勝、ゆえに林察は雲勝を開山とした。山門前の九品仏(くほんぶつ)上品上生(じょうほんじょうしょう)の阿弥陀如来(あみだにょらい)は、もと牛沢口にあったもの。
22神明宮
村上市羽黒町6-16
主祭神 天照大御神、豊受大神
配祀 愛宕神社、古峰神社、八幡神社、秋葉神社(郷中の無縁となった神社を合祀)
御霊験 五穀豊穣・商売繁盛・開運厄除け・縁結び・学業成就
由緒
元禄3年、村上藩主 榊原式部大輔勝乗(さかきばらしきぶのたゆうかつのり)侯の発願により建立され、明治12年に現在の社殿が竣工するまでは西奈彌羽黒山三社大権現本殿として祀られていたが、その後、移築され「神明宮」となる。
日光東照宮の職人を招致して造営されたと伝えられ、極彩色の彫りに黒漆、金箔押し、丹塗りなど県下では珍しい桃山風の建築様式(三間社流造(さんげんしゃながれつくり))を呈す。
昭和44年に新潟県文化財指定を受け、文化庁指導のもとに解体復元された。
23常福寺
村上市羽黒町4-1
創立天文9年(1540)、開山は保山祝恕(ほざんしゅくじょ)和尚。同和尚の師は長岡鷺巣(さぎす)村の定正(じょうしょう)院を創建した曇英(どんえい)和尚である。
城主 堀直竒が長岡から村上へ転封されるとともに、常福寺も従ってきた。二十四代住職 仙翁(せんのう)和尚の書写した大般若経(だいはんにゃきょう)六百巻が所蔵され、写経に用いた筆を納めた筆塚がある。
また、土方雄隆(ひじかたかつたか)の墓所でもあった。土方は陸奥(むつ)国窪田(現いわき市)一万八千石の小名。家中騒動により城地没収、主君の雄隆は村上の榊原勝乗(さかきばらかつのり)に預けられたが、元禄(げんろく)4年(1691)6月12日、村上で没した。
24宝光寺
村上市羽黒町2-23
創立享保11年(1726)9月、開山一燈(いっとう)和尚。この山を牛沢山といい、村上城主内藤信輝(のぶてる)の火葬の地であった。内藤氏が村上城を賜ったのは弌信(かずのぶ)で、その跡を信輝が継ぐも、享保11年10月25日に没した。
一燈和尚は、その火葬地に観音菩薩(かんのんぼさつ)の堂を建立して像を安置した。
信輝の跡を継いだ信興(のぶおき)は、観音堂の維持のため山林を寄進している。
同寺には、里本庄から発掘された長禄(ちょうろく)3年(1459)紀年銘(きねんめい)の鰐口(わにぐち)(村上市文化財)が蔵されている。
墓所には、鮭育養の祖 青砥武平次、村上藩家老 鳥居三十郎、村上町校初代校長 長尾右門、皇室傅育官長(ふいくかんちょう)三好愛吉等の墓碑がある。
25光徳寺
村上市羽黒口7-24【ご朱印承ります】
創立、正保元年(1644)、内藤家三代 信照侯が棚倉(福島県)で開基し、源蔵和尚が開山した。
山号の常照山は、源蔵が内藤家始祖の信成(のぶなり)侯とともに伊豆国(静岡県)韮山(にらやま)へ移ったときに常照寺を建立したことによる。
法善の院号は信成侯の諡(おくりな)、光徳は内藤家二代 信正侯の諡である。三の丸にあるこの寺は古くから代々の城主の菩提寺となった。
英林寺は堀直竒侯(元和四年~)、瑞峰寺は榊原侯(寛文七年~)等、光徳寺は享保五年(1720)に内藤侯が入封してからで寺領百石を拝領して以来、150年間続いた。
寺域は城内の一郭として、国重要史跡に指定されている。
26東林寺
村上市羽黒町8-10
創立は明暦(めいれき)元年(1655)3月、開山は泉梁(せんりょう)和尚、満福寺の末寺である。その以前は妙心(みょうしん)庵と称した庵寺であったという。
その妙心庵に隠居生活をしていたのが、村上茶の元祖といわれている徳光屋覚左衛門(本名 土田)夫妻。ゆえに境内地には、夫妻の墓碑と頌徳(しょうとく)碑が建立されている。
また寺内には夫妻の肖像画がある。覚左衛門の没年は寛永11年(1634)6月26日。頌徳碑の建立は大正11年(1922)。当時の住持 竹内越岸(えつがん)の発起による。
27満福寺
村上市羽黒町7-8
創立 慶長元年(1596)、開山は耕雲寺14世 剛安寿金禅師(ごうあんじゅきんぜんじ)。宝永2年(1705)での山号は村上山とある。後に慈海山(じかいさん)と改め、さらに體真山と改めた。
山号を改めた理由は不明であるが、村上山の山号は地名によることは明らか。文書上の村上の初出は永正6年(1509)9月11日である。
文化2年(1805)に建て替えられた時の費用は90両3分2朱と銭1035貫730文。全て銭にすると、1651貫862文であった。当時の大工日当は150文、米一俵1貫650文の時代である。
28長楽寺
村上市羽黒町11-43
創立 天文9年(1540)、開基 本庄越前守繁長(ほんじょうえちぜんのかみしげなが)、開山 耕雲寺11世 三心宗尹(さんしんそうい)禅師。
始めは里本庄にあり、本庄氏に従う形で村上に移った。本庄氏が村上を去るのは天正18年(1590)末、福島城主になるのが慶長5年(1600)。その時、同寺は福島へも建立された。福島長楽寺の開山は、宗尹の師の大沖元甫(だいちゅうげんぽ)である。
江戸時代中期には城主 榊原(さかきばら)氏や本多氏などの家中寺として遇されたか、両家の重臣らが菩提寺にしている。参道入口には九品仏の上品下生仏、境内には三十三番観音を祀る。
29龍皐院
村上市羽黒町12-30
創立は文安3年(1446年=室町時代中期・室町幕府八代将軍 足利義政公の時代)。後に、耕雲寺5世に晋住される徳嶽宗欽(とくがくそうきん)大和尚が草庵を結び、九皐庵と称して山居されたことが始まりである。
開山没後、新発田の宝積寺(ほうしゃくじ)より、法孫の瑚珊文愛(こさんぶんあい)和尚が来て、山号を飯野山と定め、寺号を龍皐院と改めて中興し、今日に至っている。
現在の本堂・庫裏は平成2年(1990)に、山門は平成9年(1997)に改築されたものである。
山門前には、享保2年(1717)造立の地蔵菩薩立像がある。その近くには「三ツノ山」(江戸時代の力士)の墓碑がある。
30本證寺
村上市岩船三日市8-32
当山は長禄3年(1459)、本證院日實が旧岩船郡猿沢村に創建した寺である。
その後、慶長4年(1599)園龍院日諦により現在地に移転、今日に至る。宝暦元年(1751)留守番務めの日悟、日恵夫妻が庵室、祖師像および唐破風造宮殿、鬼子母神宮殿、その他諸道具を寄附する。正に中興壇越なり。
平成元年(1989) 宗祖七百遠忌記念事業として、本堂新築、欅造り、屋根銅板葺き、天井天女舞い。本堂裏には位牌堂。他には、七面天女、清正侯、妙見大菩薩、大黒天が各宮殿に安置されている。合掌
31諸上寺
村上市岩船三日市10-19
寺伝によれば、大化年間(645~49)には感應(かんおう)寺という天台宗(真言宗とも)の寺で、石船神社の別当であった。その後、一時期廃絶したが、文明7年(1475)3月に耕雲寺5世の徳嶽宗欽(とくがくそうきん)大和尚によって再興されるが、再び荒廃する。天正元年(1573)5月にいたり、村上領主 本庄繁長(ほんじょうしげなが)侯が巖室文松(がんしつぶんしょう)大和尚を招いて開山とし、寺号を諸上寺と定めた。
開基は村上領主 堀直竒(なおより)侯で、寺領地も堀家の寄進によるものであった。躑躅(つつじ)の咲く庭園は見事なもので、虚空蔵(こくぞう)堂が建つ。裏山には三十三番の観世音菩薩が祀られている。現在の本堂は天保元年(1830)に再興されたもの。
32石船神社
村上市岩船三日市9-20
「神様が天(あめ)の石船(いわふね)に乗りお出でになられた」との伝説をもつ磐舟郡総鎮守。圏域『岩船(いわふね)』の地名の由来。創祀は大化4年磐舟柵(いわふねのさく)設置以前と伝わる。
御祭神は饒速日命(ニギハヤヒノミコト)。
大同2年(807)北陸道観察使 秋篠朝臣安人が下向の際に社殿を建立。越後國の北の守護神(まもりがみ)として京都貴船神社の御祭神三柱を合祀以来壱千二百年、明神様(みょうじんさま)と称されて広く信仰を集める。
延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)に越後磐船郡の筆頭に記載。色部氏、本庄氏、歴代村上藩主等に鎮守の御社として篤い保護を受ける。
明治期に越後一宮彌彦神社に次ぐ県内最初の縣社に列する。
33最明寺
村上市岩船下大町1-20
天正年間(1573~92)に宥弁(ゆうべん)和尚の中興にかかる。羽前国(山形県)置賜郡塩野村の延徳寺(えんとくじ)の末寺であったが、天保年間(1830~44)に離末となり、明治13年(1880)に京都の智積院(ちしゃくいん)の末寺となった。
松沢の長松寺は最明寺の末寺であったことが大永5年(1525)に見える。天正4年(1576)1月8日には巻き昆布・わらび・ひじき・大豆を肴に冷酒で蘇民将来(そみんしょうらい)(厄除け子孫繁栄)の行事をおこなっていることが、平林城主 色部氏の記録に見える。その当時は同氏の祈祷(きとう)寺であった。
34弘願寺
村上市八日市4-5
貞和(じょうわ)元年(1345)に相蓮社岌頓(ぎゅうとん)上人の開基と伝えられ、また東側の卵塔場(らんとうば)(墓地)には至徳(しとく)元年(1383)の年号の入った梵字(ぼんじ)の三尊を彫った板碑(いたひ)があります。
又不老庵黄裳(十一屋勘兵衛)の碑があり「これを見ぬひとはつれなく散る桜」の句が彫られておりました。
この寺の第十一世但蓮社岌慶(ぎゅうけい)上人は平林の色部修理進の俗弟であるといわれておりますが、資料は何も残っておりません。現在の伽藍(がらん)は文化元年(1804)村上の棟梁 富樫与助によるものです。当時は茅葺でしたが新潟地震で壊しました。
35不動院
村上市八日市5-67【ご朱印承ります】
真言宗の総本尊は大日如来ですが、当山は別の徳を頂く不動明王です。宗祖は弘法大師(空海)、派祖は理源(りげん)大師(聖宝)、修験曩祖は神変大菩薩(役小角(えんのおづぬ))。
おしえは、
一、密厳国土(みつごんこくど)(この世に理想の社会を建立するために)
一、三密妙行(さんみつみょうぎょう)(心きよく行い正しく真実の言葉を口にし)
一、修証験得(しゅうしょうけんとく)(日々の生活を反省し精進努力、その御法(おしえ)をこの身に体現する)
これが真言醍醐の教風です。この教えに随い祈祷祈願するのが当山不動院の基本であり根本でもあります。
36善行寺
村上市岩船上町6-10
鎌倉時代、文永3年(1266)、平林城主五代目、従五位下内舎人 色部右衛門尉平公長(じゅごいのげうどねりいろべうえもんのじょうたいらのきんなが)により、平林城下に本願寺直属の末寺として創建される。色部家八代城主、氏長(うじなが)までの菩提寺であった。
戦国時代に入り、平林城下から瀬波郡小泉荘加納の江、現岩船上浜町の地に、色部家より方六十間の屋敷を得て移転する。浜の寺という俗称はこれより起った。この地で二度の火災に遭い、享保年間(1716~36)に現在の岩船上町に本堂および大門を造営するが、文久2年(1862)に全焼する。その後、長く仮本堂であったが、昭和44年(1969)、檀徒の尽力により再建され今日に至る。
37鹽竈神社
村上市塩谷1194
承安3年(1173)塩谷字古屋敷(現在の松和町)の地に創建。
慶長2年(1597)疫病退散、武運長久(ぶうんちょうきゅう)と繁栄を祈願し社殿を再建すると伝えられている。
享保16年(1731)境内地の狭隘化(きょうあいか)により現在地に奉遷さる。
現社殿は明治11年(1878)に再建されたもので、昭和18年(1943)に拝殿及び幣殿が改築された。
主祭神 塩土老翁命(しおつちおじのみこと)
合殿 天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ) 水波売命(みずはのめのみこと)
例祭日 9月20日
38光浄寺
村上市有明713【ご朱印承ります】
建立、天文(てんぶん)7年(1538)、開山は平林千眼寺(せんげんじ)の三世 底寂玄徹(ていじゃくげんてつ)禅師、もとは真言宗で竹林寺(ちくりんじ)と称し、その御本尊であった十一面観世音菩薩をお祀りしている。
最初は、郷清水(ごうしみず)と呼ばれている清水端にあったといわれ、今でもその名のとおり清水が湧いている。現在地に移したのは、延宝8年(1680)と伝わっている。
越後三十三観音霊場の第27番札所となって、その祭礼は4月18日と8月18日である。裏山に西国三十三観音霊場より砂を頂いて作った観音様が三十三ヵ所ある。
39善福寺
村上市瀬波中町5-5
創立不詳、寺伝ではもと寺尾にあったが、のち大平(おおだいら)に移り、慶安(けいあん)元年(1648)に現在地に移ったという。
また明治16年の記録では、はじめ瀬波小六町にあり齢洲庵(れいしゅうあん)といった寺であったが、元和(げんな)4年(1618)9月に水害に遭い、現在地に移ったとある。
開山は耕雲寺廿世 壽遭(じゅそう)大和尚で耕雲寺の末寺である。寺号もそのとき善福寺に改めたとある。
文政9年(1826)6月13日、火災のため全焼。翌年6月18日に再建された。小六町は大龍寺の裏手、河岸段丘下にあったとの伝承がある。
40西奈彌神社
村上市瀬波浜町4-16
この神社は『延喜式』神名帳(927年完成)に載っている。所謂式内社であって、祭神は保食神(うけもちのかみ)で食物を司る神である。
伝承によると福井県敦賀市に鎮座する気比神宮と関係が深く、往時永く気比宮、或いは気比大明神といわれていた。明治になってから西奈彌神社と称し、現在に至る。
明治18年10月の火事で焼失し、同21年9月に再建されたが仮殿であり、大正9年6月に本殿を再建、平成3年7月に拝殿等再建した。
例大祭は9月4日で、神輿一基と屋台車5台が町内を巡行する。
41多伎神社
村上市岩ヶ崎字多伎山787
延喜年間(901~23)に成立の『延喜式』には岩船郡八社があげられ、その中の一社がこの多伎神社である。
祭神は海神三神の市杵島姫命(いつきしまのひめのみこと)を遠瀛(おきつのみや)、田心姫命(たごりひめのみこと)を中瀛(なかつのみや)、湍津姫命(たきつひめのみこと)を海辺(へつのみや)に祭るとされた。その湍津、すなわち多伎神社である。
付近に滝不動があるから多伎神社ではない。海神のタキツヒメを祭る神社なのだ。ただし、この神社には市杵姫命や田心姫命は存在しない。湍津姫命の海辺のみである。滝不動信仰がこの多伎神社に付随するのは後世である。
42養福寺
村上市大月1536
創立は元和(げんな)8年(1622)で、開山は寿遭(じゅそう)和尚とある。耕雲寺の末寺であるが、本尊は阿弥陀如来としている。
村上城主 堀丹後守直竒(ほりたんごのかみなおより)の宗教政策により、衰退していた別の寺院を耕雲寺に再興させたものか。また隠れキリシタン摘発のための宗門人別帳の作成と寺請(てらうけ)証文を発行して海運従事者の身分を保証するためである。そのことは一面、村の人口動態をも知ることであった。
43潜龍寺
村上市野潟2204
創立は慶長16年(1611)、開山は寿山(じゅざん)和尚。耕雲寺の末寺で、本尊は延命地蔵尊である。
その年代の村上城主は村上周防守忠勝(すおうのかみただかつ)と名乗る大名だった。
忠勝の父が頼勝(よりかつ)といい、村上藩初代の城主であったが、慶長9年に没し、耕雲寺へ葬った記録がある。
村上氏の宗教政策による創立と考えられる。すなわち村の人口動態と隠れキリシタンを探索するため宗門人別帳を作成させることであり、船頭ら海運に従事する人々の身分を保証する寺請(てらうけ)証文を発行させることである。
44常榮寺
村上市天神岡368
天神岡集落は平安時代(900年前)京都の中御門家(なかみかどけ)の荘園 小泉荘(こいずみのしょう)の旧跡を窺わせる所でもある。
寺の開創は寛永2年(1705)大場沢の普済寺九世 明山芳哲(みょうざんほうてつ)大和尚に依る。爾来三十六代の住職が法灯を守るが、三十二世代の時、明治42年(1909)8月5日、類焼によって伽藍全焼。再建は同年11月27日。
昭和57年、現庫裡の新築、本堂の修復工事の竣工落慶をして現在に至る。
45耕雲寺
村上市門前143
開創、応永(おうえい)元年(1394)、傑堂能勝(けつどうのうしょう)禅師の創立になるもので、その師 梅山聞本(ばいざんもんぽん)禅師を開山とし、自らは第二世になった。能勝は南朝の忠臣楠木正成の子孫。戦場で膝に矢傷を受けて不自由な身体になり出家を決意。
越前の龍澤寺(りゅうたくじ)の聞本禅師のもとで修行、悟を得る。聞本を開山にするゆえんである。開山当時は地元民に寺領を荒されるなどであったが、越後国主の上杉氏や国人領主の本庄氏、鮎川氏などの庇護を受け、しだいに隆盛、越後国内外に直末81か寺、孫末708か寺を持つ一大教団に発展し、越後四箇の道場の一となる。
梅山聞本遺戒(いかい)状と山門は市指定文化財である。
46普済寺
村上市大場沢1847【ご朱印承ります】
創立 大永7年(1527)、開山は耕雲寺八世 固剛宗厳(こごうそうごん)和尚。開基、鮎川清長(あゆかわきよなが)侯。鮎川氏は信濃守(しなののかみ)と称した土豪で、のち上杉家の臣下となる。大葉沢城は鮎川氏の居城であり、城跡は県指定文化財として保護され、特に五〇条に及ぶ畝型阻塞(うねがたそさい)群は圧巻である。
現在の本堂は安政3年(1856)7月5日の火災後に建てられたもので、天井の水墨画は有磯周斎(ありいそしゅうさい)作と推定される。山の斜面に造られた回遊式庭園は作庭家 遠藤太一(えんどうたいち)氏により三十三世現住職代に整備された。
普済寺の頭石(あたまいし)
近在に古くから伝わる話に普済寺の頭石なるものがある。住職の遷化(せんげ)(禅僧が亡くなること)が近づくと山より丸い石が出てくる。頭石の大小は住職の徳に依ると云われ、滅後に墓石となる。その頭石に触れば邪気を払い、剛力を得る御利益(ごりやく)があると云われている。
47醫泉寺
村上市岩沢979
開創 元亀2年(1570)(室町時代)
慶長年間(桃山時代)1600年代 普済寺七世 天松祖龍禅師を勧請し、曹洞宗の法燈を揚げる。
(由来)
本尊は薬師如来である。
東方遥かの山中(薦川)に一人の行者が棲んでいた。ある夜、薬師如来の尊像が現れ、西方を指して「これより遥か彼方に万病を医す薬あり。汝、採って衆生を救え」と。行者は取憑かれたように歩き続けた。日は暮れ、やがて夜が明けた。眼を覚ますと、その広野の中に、薬草が繁っていた。行者はその地に草庵を結び、人々の病を医する事に努めた。村人も行者を徳とし、尊敬と信頼で結びついたと言う。
これが当山の前身といわれ、薬草の発見が丁度ご来光を迎えた時に因んで、後に建立した朝日山医泉寺の号が付いたと伝えられる。
48本門寺
村上市中原1780
当山は村上地域屈指の古刹で、永仁5年(1297)日印(にちいん)聖人の開山である。
越後伝道の途次、飢饉疫病に苦しむ民を前にした日印聖人は白牛の跪(ひざまづ)く湿地にて祈りを捧げられた。その地より浄水湧き出で蓮華が生じ(蓮華淵(れんげふち))、ここに鬼子母尊神(きしもそんじん)を安置され化縁の跡を結ばれたのが開闢(かいびゃく)の縁起である。
戦国天正期、村上城主 本庄(ほんじょう)氏の崇敬が篤く、繁長(しげなが)の寺領安堵状(じりょうあんどじょう)が残されている。
また塩町 安泰寺より移築された本堂には、戊辰戦争時の藩の責任を負い幽閉された内藤藩家老・鳥居三十郎所縁の間がある。

※由来の詳細内容については、下記のホームページをご覧ください。

  • 村上市観光協会 「城下町村上 寺社の由来」

御朱印について

この「朱印承ります」告知板が下記寺社の「由来案内板」に下げられているときは、朱印の求めに応じられるときです。ただし、持参された朱印帳にそのとき記入押印して提供するか、予め作成した用紙で提供するかは、その時々により異なります。また、料金は「300円~」が目安となりますので、各寺社にご確認ください。

  • 法音寺(高野山真言宗) 村上市小町3-9
  • 長法寺(日蓮宗)      村上市寺町3-24
  • 経王寺(日蓮宗)      村上市寺町3-32
  • 十輪寺(真言宗)      村上市大町3-17
  • 藤基神社           村上市三之町11-12
  • 光徳寺(浄土宗)      村上市羽黒口7-24
  • 不動院(真言宗醍醐派) 村上市八日市5-67
  • 光浄寺(曹洞宗)      村上市有明713
  • 普済寺(曹洞宗)      村上市大場沢1847

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